「まっ……まってぇや!」
「やぁよ。あんたが遅いだけじゃない」
わかばは後ろを振り返り、お供の少年を睨みつけた。
二人がいるのは、フカガワ八幡神社の鳥居の前の大きな広場である。広場の中心には、茶店も出ていて、かなり賑やかだ。
広場を挟んだ八幡神社の向こう側は、水路が通っていて、船着き場も設けられている。この船着き場のすぐ横に架けられた橋が、
ホウライ橋だ。
この橋を渡れば、目の前がツクダ町であり、わかばの目的であるお稲荷さんも、目と鼻の先ということになる。
ツクダ町のお稲荷さんでは、5月と11月の初めの午の日に、骨董市が開かれていた。
こうしている今も、わかばの側を老若男女の区別なく、いそいそと橋を渡って行く。
梅雨の盛りではあるが、今日はその中休み、ということらしい。今日は、五月晴れの清々しい一日となりそうだ。
俄然、商売っ気にも気合が入る。
「早くしないと、目ぼしい物はぜぇ〜んぶ買われちゃうじゃない! 急いでよ!」
わかばが骨董市に向かうのは、姉の経営する萬屋の仕入れのためである。意外な掘り出し物を狙って、
わかばは、エド中の骨董市へ頻繁に足を向けていた。
「ほら、速くっ!」
「オレが遅いんやなくて、わかばが速すぎるだけや」
彼女に追いついた少年は、唇を尖らせてそっぽを向く。
少年の年は、15、6くらい。右の目元にある二つ連なりのホクロが特徴的で、向こう見ずそうな顔立ちをしている。
「あ。アタシに口答えできる立場にあるのかなァ? か・い・き・く・ん・はっ?」
わかばは、少年──海来の耳を思いっきり引っ張ってやった。
「イぃッた! かんッ、堪忍してやぁ!」
半纏の袖に通した少年の両腕が、ばたばたと揺れる。その動きにあわせて、フードと首から下げた小さな金づちのような物も揺れた。
「ま、いいでしょ」
ふふんと満足げに笑ったわかばの目が、ふと海来の腰のところに向けられる。
細身の袴を履いている彼は、袴を結ぶ帯に財布を引っかけていたのだ。
「海来くん、それ危ないよ?」
「ふぇ?」
「ふぇ? じゃなくて、そのおサイフ。これだけたくさんの人が集まってるんだから、巾着切りとかスリには絶好の仕事場でしょ?」
「あ〜……それもそっか」
回りを行き過ぎる人達をぐるりと見回した海来は、あたふたと財布を帯から外し、大事そうに懐にしまいこんだ。
お金が絡むと、わかばはとても頼もしい。何せ、姉の店を今の3倍の規模にしてみせると、豪語するくらいだ。
頭に被っているバンダナの結び口をぎゅっと締め直すわかばの姿は、並々ならぬ気迫があって勇ましい。
その気迫に似合わぬ、柔らかそうな長い髪が風に吹かれて、少し揺れた。
わかばは、大きく膨らんだ丈の短い袴と、太ももから始まる長い足袋を履いている。エドの町でもかなり目立つその格好は、
人の記憶に残るようだ。
「わかばちゃん。今日も可愛いなあ」
「そんな──ふふっ。ありがとうございます。伊勢屋の旦那も、今日は一段とカッコよく見えますよ」
彼女を知る商家の旦那や、鳶の棟梁らしき格好の男たちが、気安い口調でわかばに話しかけ、通り過ぎて行った。
「相変わらず有名人やなあ」
「そんなことないわよ。こっちは商売やってるんだから、自然と知り合いが増えるの」
さらっと答えたわかばは、両手を腰に当てると、
「そんなことより、速く行かないと。ちゃんとついて来るのよ、海来くん!」
「──分かってます」
「よろしい」
満足げにうなずいたわかばは、ホウライ橋の方へ向かって歩いて行く。
「はァ……仕方ないよなァ……」
とぼとぼと若さに欠ける足取りで、海来はわかばの後を追いかけていった。
「ほら! しゃんとする! しゃんと!」
「はいぃぃっ!」
前から飛んで来た叱責に、海来は背筋をピンと伸ばして小走りで駆けて行く。
(借金さえなかったらッッ)
そう。海来は、わかばに借金があるのだ。一月ほど前にとある事件で彼女と知り合い、
気がつけば10両という大金を背負い込むハメになっていたのである。
1両あれば、親子3人が一カ月、ひもじい思いもせずに暮らせる世の中で、10両というのはかなりの大金だ。
今のところ、海来に借金返済のあてはなく、こうして日々わかばに使われ、肉体労働での返済となっているのである。
「博場に行けたら、あっと言う間に返せるかも知れへんねんけど……」
博場への出入りは、知り合いの下っ引きからとめられていた。下っ引きというのは、
お上の御用を聞いて探索事にあたる岡っ引きの手下にあたる者を言う。
この男には、借りのようなものがあるし、何より怒らせると非常に怖いのである。その顔を想像して、海来はぶるりと身体を震わせた。
「海来くん、どうかしたの?」
「何にもあらへんよ」
海来が答えると、
「なら、いいんだけど。それより、覚悟はいい?」
わきゃっ。
目の前にある門の向こうは、押すな押すなの大混雑。まるで芋の子を洗うような盛況ぶりだった。門の隙間から見えるだけで、こうなのだから、お稲荷さんの敷地を囲む塀に隠れて見えない所も大差あるまい。
「…………わかば……」
やっぱり行くのは止めにしません? 海来が声をかけるよりはやく、
「いざ、出陣っ!」
わかばは、たくましい足取りで門をくぐって行った。債権者のご意向には逆らえない。
「まっ……待ってや!」
転げるようにして、海来はその後を追いかけて行った。
そこそこに広い境内は、門から覗きみた通りの大混雑である。
1つの業者が並べる陳列台は、平均して2台くらい。それぞれ高さは大人の腰程度だ。
ただ、台を用いて商品を並べているのは、それなりに大きな店のようで、業者の半分くらいはゴザの上に品物を並べている。
ハギレはこのあたり、くしやかんざしなどの小間物はあっち、茶碗などの焼き物はむこう、
書画はその隣、戸棚や火鉢などの大きな物は奥の方などというふうに、並べる商品ごとに、一応の区画はできているようだ。
「一応、今日の狙いは小間物なのよ。海来くんも目をお皿みたいにして、掘り出し物を探してね」
「そう言われてもやあ……オレは刀以外のことはよぅ分からへんし……」
「大丈夫。海来くんには、刀以外の物の鑑定眼なんて期待してないから」
わかばが、ざくっと海来の心を抉る。気楽でいいかと思う反面、全く期待されていないというのも、悲しいものがあった。
「さ、行くよ! 海来くん!!」
しょぼんとしている海来なんて、わかばの眼中にはないらしい。彼女はヤル気満々で、人込みをかき分け、小間物を扱う区画へ突撃して行った。
「フクザツやわ……」
わかばの背中を見失わないようにしながら、海来も人込みの中を進んで行く。
並べられた品物を囲む人垣が途切れることはなかったが、それでも、ところどころ隙間はあいており、
そこからどんな品物が並べられているのか伺うことができる。
わかばの背中を気にかけながら、海来は好奇心にかられて、人垣の隙間に目を向けた。
「はぅぁっ!」
海来の目がキラリと光る。
人垣の隙間から見えるアレは、刀の鞘ではないだろうか。隙間は、人の動きにあわせて小さくなったり、大きくなったり、場所を移動したり。海来は右へ左へ体を動かし、伸びたり縮んだりしながら、ゆっくりと人垣の方へ進んでいた。
わかばのことは、すっかり忘れてしまっている。
人垣の中をもぞもぞと、「すんません。ちょっと……」
声をかけたり、体を捻ったりしながら、海来は前へと進んで行った。
ようやく最前列に来ると、やはり隙間から見えたとおり、この区画では刀を扱っているようである。
骨董市に並べられているだけあって、鞘のこしらえは古めかしい物が多い。とはいえ、それはそれで味わい深い物がある。
どれを見せてもらおうかなと、並べられた刀に目移りしていると、
「お主にはこれが良かろう」
「え? あの、そんなこと言われても……」
横から老人の声と若い男の声が聞こえてきた。
どうやら、60を幾つか越えたと思われる老人が、気の弱そうな若い侍に刀を勧めているらしい。
少しばかりもめているようでもあったが、海来は気にしなかった。
「これ、見せてもぅてええかな?」
「どうぞ、どうぞ」
海来が目をつけたのは、白木作りの鞘におさまった刀である。白木とはいえ、そこそこの年月を経ているため、やや変色していた。
海来は刃が上になるように鞘を持ち、ゆっくりと柄を抜いていく。
鞘の中から現れたのは、刃文がまっすぐな直刃と呼ばれる文(だった。
刃文というのは、刀の黒っぽいところと白っぽいところとの境にできた文様のことである。切れ味には何の関係もないのだが、美術品として鑑賞する場合には、非常に重要なポイントと言えるだろう。
「お前さん、なかなか良い目をしとるの」
「はン?」
海来に声をかけてきたのは、若い侍に刀を勧めていたあの老人だった。
黒縁の真ん丸いメガネをかけており、栗色の渋い色合いの着物を着ている。物知りな横丁のご隠居といった雰囲気であった。
いつの間にか、海来の右隣でしゃがんでいる老人は、鼻の下に生やした髭を得意げに撫で、
「その刀、備前長船長光(だぞ」
「何やてぇ?」
海来は、しげしげと手にした刀を見つめた。
備前長船長光と言えば、宮本武蔵のライバルとして有名な佐々木小次郎の愛刀だったはず。
「………………いや、違うやろ」
雰囲気は確かに似ているが、長光ではない。
「ぬっ……。お若いの、ワシの鑑定眼を疑ぅておるな?」
「いやいや。疑ってるんやのぅて、ホンマに違うから。まぁ確かに長光に似てるけど……でも、多分別物やで」
なあ? と問いかければ、まだ前髪を残している店員は苦笑いを浮かべながら、長光ではありませんね、と答えた。
「こちらのお客様のおっしゃるとおり、50年くらい前にエド近くで作られた物だと、聞いております」
「ぬぬっ……」
「スマンな、じいちゃん」
海来が老人に詫びると、別の客の接客をしていた、年かさの店員が近づいて来て、
「ひょっとして、海来さんではありませんか?」とたずねてきた。
「ふぇ? あぁ、えぇ、まぁ……そうですけど……」
「ああ、やっぱり」
「あの──?」
遠慮がちに聞いてきた前髪のある店員に、知る人ぞ知る、有名な刀の鑑定士なのだと年かさの店員が教えてやる。
「鑑定士さんなんですか?!」
「いやぁ……そんな立派なもんやあらへんけど──刀好きがこうじてそんなこともやらせてもろぉてます」
目を丸くして驚く若い店員に、海来は照れ笑いを返した。拝見させてもらっていた刀は、鞘に戻し、元の位置に返す。
「刀の鑑定士じゃと……?」
「ええ。まあ、そうです」
老人は目を真ん丸くして驚いていた。
なんだか騙していたようで後ろめたい気もする。しかし、刀を拝見するたびに、「オレは刀の鑑定士です」なんて名乗るわけがない。
海来は申し訳無いような気持ちになって、
「騙すつもりはなかったんやけど……」
と、老人に頭を下げた。
返事はない。
怒っているのかと思い、上目使いで様子をうかがえば、案の定、老人は唇をキツく噛み締め、ぶるぶると震えていた。握った拳にもかなりの力が入っているようである。
ここでぺこぺこと頭を下げるのも、なんだかおかしな話のような気もするし、海来は老人の顔色をうかがいながら黙っていた。
すると、老人は深いシワのある顔を真っ赤にして大声を上げる。
「ワシを、たばかったなぁッ!!」
「たばかっ?! アホ言いなや! ジブンを騙したかて、オレには何の得もあらへん!」
彼の言い分にぎょっと目を見張った海来は、あわてて反論した。しかし、老人の耳には届いていないようである。小声でぶつぶつと何やら文句を並べ立てていた。耳をそばだてると、ジジイだからと馬鹿にしやがって、とか何とか。
「あのやあ──」
騙すつもりはなかったんだと、海来は言葉を続けようとした。が、それは後ろから飛んで来た不機嫌な声に妨害される。
「かぁ〜いぃ〜きぃ〜く〜ん〜?!」
「わっ、わかば……」
柳の下に立つ幽鬼のような形相で、わかばがゆらりと上半身をゆらし、海来の側にやって来た。
彼女の顔を見たとたん、海来の顔から血の気がさっと引いていく。すっかり忘れてしまっていた、
骨董市に来た理由を思い出したからだ。
「ぬぁ〜んで、こんな所にいるのよ!? 今日は荷物持ちをしてくれる約束でしょ?!」
わかばは海来の胸元をひっつかむと、力任せに揺さぶる。海来の頭はそれに合わせて、前後にがっくんがっくんと大きく揺れた。
「すまん! 堪忍したってや!」
揺さぶられながら、海来はひたすら謝罪した。
「どうせ、刀が見えたから、ふらふら〜っとそれに引き寄せられちゃったんでしょ!?」
アタリ。とは言え、その通りですなどと言おうものなら、わかばの怒りは頂点に達しそうなので、
「そんなことはありません」と答えるしかない。
「ホンマ。ホンマ、悪かったって。反省してます。だから許したってぇや」
海来は懸命に謝り倒す。揺さぶる手を止めてはくれたものの、わかばはまだ許してくれそうにない。
誠心誠意謝り続けるしかないかと、海来が覚悟を決めたそのときである。
パキッ──
何かカタいものがはぜたような音が、聞こえた。それは、聞き逃していても不思議ではないくらい、とても小さな音だった。
海来は、音の発生源を探して首を巡らせる。こんなところで聞くような音ではないから、何の音なのか気になったのだ。
回りにいるのは、海来とわかばのやり取りを面白がって見ている見物人がほとんどである。彼らはにやにやと面白そうに笑っており、謝るのをやめた海来に向かって、「もう謝らなくてもいいのかあ?」なんて野次も飛んで来た。
「海来くん、どうしたの?」
海来があたりを見回すので、不審に思ったのだろう。わかばが眉間に皺を寄せて、首を傾けた。
「いや、ちょっと……」
回りに目を配り続けたまま、海来は気のない返事を返す。はて、あの音は空耳だったかと思いかけた、その時だ。
「うわぁぁぁっ!」
見物人の口から悲鳴が上がった。
すわ何事かと、声の方へ顔を向けると、
「ワシ……ワシを、騙しおってェェッ!」
あの老人が白目を剥き、口角からぶくぶくと小さな泡を吐いていた。何よりも一番大きな変化があったのは、肌の色であり、
額のコブである。
肌の色は鉄のように黒くなり、額には角のようなコブが生えてきたのだ。角だと言い切らないのは、あまり大きくなく、
かたそうにも見えないからである。
額に生えた角はお粗末でも、老人の顔は鬼そのものであった。口角に張り付いた泡が、まるで牙のようにも見える。
「ワシをたばかるなぞ、許しておけんわ!」
一声吠えた老人は、側に並べてある刀を取ると、鞘を放り捨てて海来の方へその切っ先を向けた。
わかばが「きゃあ」と悲鳴を上げて、後ろに下がる。海来も「うわあ」と驚いて、腰を浮かせた。
「この悪童め、成敗してやるわ!」
悪童とは、また古臭い言葉が飛び出したものである。悪ガキとかいった意味合いの言葉であるが、その後に続く『成敗』の言葉に海来の背筋がひやりと凍った。
「そこに直れぃ!」
鬼と化した老人は、刀を振りかぶり、えいやっと振り下ろす。海来は「うわあ」と悲鳴をあげて、とっさに横に並ぶ刀を取上げ、振り下ろされた白刃を受け止めた。
がきんと、確かな手ごたえが腕に伝わって来る。
「さっ、鞘がッ!」
海来が掴んだのは、先程見せてもらった白木のこしらえの刀であった。鞘も白木製なので、振り下ろされた刀の刃が少しばかり食い込み、傷ができてしまったのである。
「おのれ! 刃向かい致すか?!」
老人の身なりはどう見ても町人のそれなのに、言葉遣いは武士そのものだった。
海来とわかばの口論を面白そうに眺めていた見物人たちの口から、わあわあ、
きゃあきゃあ、悲鳴が上がる。いつ切っ先がこちらに向けられるか分からないと、人々は先を争うにしてこの場から逃げ出した。
「どうなってるのよ?!」
「それを聞きたいんは、オレの方や!」
刀の鑑定は得意でも、刀を振るうのは不得意である。鞘から刀を抜きはしたものの、刀を振るう海来はへっぴり腰であった。
同じ素人剣術でも、老人の方が勢いづいているだけまだマシと言える。
何とか鬼と化した老人の攻撃を避け続けているのものの、海来の表情に余裕はなく、
次の瞬間にはやっつけられていてもおかしくなさそうだ。
「だれか〜……だれかいないのぉ〜?」
巻き込まれるのは御免だと、やじ馬たちは遠巻きに海来と老人のチャンバラを見ていた。その中には、侍らしき格好の人も含まれていたが、わかばと目があうと、とたんにそそくさと目を逸らしてしまう。
「何の騒ぎだ……って──まぁたお前が絡んでるのか!? 海来ッ!」
「志輝さん……っ!」
頭の上から降って来た声にわかばが振り向くと、ひょろりと背の高い男がわかばの隣で足を止めた。
年は20くらい。髪は短くざんばらで、右目を包帯のように細く切った布で覆い隠している。薄手の黒い長羽織を肩に引っかけ、下は弁慶格子(の着流しだ。よく見れば、長羽織には『大江戸八百八町に〜』と助六のせりふが縫い取ってある。
「お前、何をしやがった!?」
志輝が声を張り上げると、海来は「何もしてへん〜」と少々情けない声を出した。
「志輝さん、早く何とかしてください!」
わかばは志輝の袖をつかみ、老人と海来を指さす。
彼は、フカガワ八幡神社の門前一帯を取り仕切る辰造という岡っ引きの手下だった。
30人はくだらないと言われる辰造の手下の中でも、志輝は頼りになると評判である。
わかば自身、彼の采配に助けられたこともあった。この人が来てくれたんなら、もう大丈夫だと、わかばはほっと胸を撫で下ろす。
「ったく。何だってこう、お前の行く先々で揉め事が起きるんだ?」
「そんなん、オレが聞きたいわ!」
老人が振り下ろす刀をへっぴり腰で受け流し、海来は志輝に向かって吠えた。
志輝は頭を掻く。
「喧嘩ぐらい手前ェで収めてみろよ」
「オレは、色男やからな。金も力もあらへんねや!」
「イロもねぇのに、色男とは良く言うぜ」
海来の反論にひょいと肩をすくめた。
とはいえ、海来に余裕がないのは一目瞭然である。
刀が好きなのと、刀を使えるのとは全く違う事なんだなぁ。志輝は、呑気な感想を胸に浮かべながら、
「しょうがねぇなあ」と、無造作な足取りで、老人の側へ近づいて行く。
「おのれ、貴様も邪魔するか!?」
老人は志輝を睨みつけ、一喝した。
遠巻きに見ているやじ馬やわかばの口から小さな悲鳴が漏れたが、志輝は不適に笑っているだけだ。
「そんなモノを振り回されちゃ、迷惑なんだよ」
ぶんとうなりを上げる一撃を、ひょいと避け、志輝は老人の脇を擦り抜ける。そのすれ違いざまに、鮮やかな手並みで老人の手を取り、後ろに捻りあげた。
「火事と喧嘩はエドの華ってな。慣れねぇことはするもんじゃねぇよ、じいさん」
老人と志輝は、頭1つ分以上の身長差がある。差があるのは身長だけではなく、腕力も相当な差があるらしい。鬼に変化しているにもかかわらず、老人は志輝の手を振りほどけずにいた。
「ほれ、とっとと鎮めっちまえよ」
志輝は老人の手から刀を取り上げると、それを地面に突き刺した。
あっさりと鬼を取り押さえてしまった志輝を、海来はまじまじと見つめる。あんなに苦労してチャンバラしていた自分が、とても間抜けに思えてしまった。
「何だ? 俺が片付けた方がいいのか?」
海来が返事をしなかったので、志輝はきょとんと目を丸くしている。
「そっ……それはあかんて」
我に返った海来は、慌てて首を横に振った。
この老人を人に戻すことは、海来にしかできないことである。志輝に任せてしまったら、この老人はあの世からの迎えと顔を合わせなくてはならなくなってしまう。
海来は息を整えると、老人の姿を観察する。
いつかの時のように、持ち物にどす黒い勾玉がくっついていると思われた。
老人が身につけているのは、丸いメガネと着物に帯、下駄──それに帯から下げた財布。
「あった!」
財布の留め金だ。勾玉型の留め金の所で、黒い煙がくすぶっている。
ぱっと顔を輝かせた海来は、老人の額に右手を当てた。
そうすると、老人の聲(が海来に届く。
聲(は同時に彩(である。
音の固まりと色の固まりが、海来の頭の中で、響き合い、反響し、不協和音だけを奏で続ける。
色彩は明るく暗く、濃く淡く。
嚶(き聲は遠く近く、高く低く。
打ち上げ花火のように、どんと咲いては、ぱっと消える。単発で咲いたかと思えば、連続で咲く。
海来の頭の中は、花火の音と色とで爆発寸前だ。
だから、海来はどんな大きな花火をも飲み込んでしまう大きな波を思い浮かべる。
北斎が描いて見せた富士山をも飲み込みそうな、大きな大きな波を思い浮かべるのだ。
その波をもってして、全ての色彩、全ての嚶き聲を遠くへ押しやってしまうのである。
押しやってしまった先には、蓮の花のような炎が咲いている。この紅い炎は、この世の悪いものだけを燃やしてしまうのだ。
「今やっ!」
海来が老人の額から手をはなす。志輝もほぼ同時に老人から離れた。
轟華(火)絢爛。
鉄色の肌の鬼が、蓮の炎に包まれる。
「──ガアァァァァァァ〜ッ!?」
一歩後ろに引いた海来は、首からぶら下げている小さな金づち──目釘抜きといって、柄から刀身を抜くときに使う物──を紐から外した。
本来の使い道から大きく掛け離れているものの、海来の持ち物の中で勾玉の破壊に使えそうな物はこれしかないのである。
「せいっ!」
気合と共に、海来は老人がぶら下げている勾玉型の留め金を、目釘抜きで打った。
パ キィンン──
勾玉は、意外にも澄んだ金属音を立てて、粉々に砕け散ってしまった。
「あ……。うぅっ……」
「おっと……」
後ろに引っ繰り返る老人を、志輝の腕が支えた。変わり果てていた姿は見る間に元の姿に戻って行く。
「ふぃ〜」
達成感に満ちた心地よい疲労感を感じつつ、海来は額の汗を拭った。
「海来くん!」
近づいて来るわかばに、海来は「大丈夫や」と笑顔を向ける。
「本当?! 本当に大丈夫!?」
「あぁ。大丈夫や」
右手の目釘抜きを紐にくくり直し、海来はどんと胸を叩いた。
老人の方は、志輝が万事抜かりなく手配してくれているようである。戸板を持って来いとか、
どこそこの医者に運ぶとか、そういった声が聞こえて来ていた。
「おい、海来! 爺さんは医者に連れて行くからな」
「あ、うん。せやな。そうしたってや」
少し離れた所から飛んで来た志輝の声に、海来は大きめの声で返事を返した。
「後の事は政次に任せてある」
志輝が肩越しに指さしたのは、縞の着物を着た30前くらいの男であった。
何かあったら、あいつに言ってくれと、言い置いて、志輝は老人を乗せた戸板と一緒にこの場から離れて行った。
「海来くん、本ッ当に大丈夫なのね?」
真剣な表情で、わかばは海来にたずねる。
「大丈夫やって、言うてるやろ」
志輝の方に向けていた顔を、わかばの方に戻した海来は、照れ臭くて後ろ頭を掻いた。
何となく、わかばの顔を見るのも気恥ずかしい。
老人とのチャンバラは、無我夢中だったので正直何が何やらサッパリだった。
志輝のようにサラリと事を収められたら格好良いのだろうが──こんな風に心配してもらえるのなら、これはこれで悪くない。
「ホンマ、どこも何にもなってへんから」
わかばを安心させたくて、海来は優しい声で答えた。
「そう。──なら、荷物持ちは大丈夫ね」
「は?!」
思わぬセリフに、海来はぎょっと目を丸くする。
「じゃあ、しっかり働いてもらうからね!」
「ちょっ……?!」
「大丈夫なんでしょ? か・い・き・く・ん?」
わかばはにっこり笑ってはいるのだが、有無を言わせぬ迫力がある。
「…………すまん」
「え?」
「やっぱりアカンみたいやわ。オレもちょっと行ってお医者に診てもらうわ〜」
「えぇッ?! ちょっ……海来くん!?」
わかばの声には耳を貸さず、海来は全速力でその場から離脱した。
「こらぁッ! 元気じゃないのよ?! 待ちなさい!!」
逃げ出した海来の後を追いかけたものの、わかばはすぐに彼の背中を見失ってしまった。
周りの雰囲気は、いつもの骨董市に戻っている。にこやかな笑顔を浮かべながら、戦利品を手にした男女がわかばのそばを通り過ぎていく。
これでは、海来を捕獲するのはムリである。
「おっ……覚えてなさいよぉぉ〜。海来くんッッ」
こぶしを固く握り締めたわかばは、本日支払う予定だった日当を、逆に借金に付け加えてやることに決めたのだった。
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