「……ちょぉっ……ちょっ、何で借金が増えてんねや?!」
 アイカワ町にある萬屋(よろずや)さくらの店奥から、少年の悲鳴が聞こえてきた。
 少年の名前は、海来(かいき)。やや向こう見ずそうな顔立ちで、年の頃なら16、7といったところか。右の目元には、特徴的な二つ連なりのホクロがあった。
「オレの借金は減ることはあっても、増えることはなかったはずやろ!?」
 海来は、目の前に座る少女に向かって、帳面をつきだし、抗議する。
 少女は海来と同じくらいの年頃で、生来の勝ち気そうな顔立ちが、今は凪の日の海のように穏やかだった。
 彼女の名前は、わかば。16の娘盛りでありながら、この萬屋さくらを支える柱の1本であった。
「海来くん、ちゃんと借用書は読んだ?」
 麦湯をすすりながら、わかばはぎろりと目を光らせる。
 金がからむと、この少女は恐ろしい。
「読っ……読んだっケド?」
 ひぃと小さな悲鳴を口の中で上げ、海来は上ずった声で答えた。
 すでに逃げ腰である。
「もう一度、ちゃんと読み直してくれる?」
 にこにこ笑顔の中に大きな青筋が浮かんで見えた。わかばは、いつも着ている羽織の袖から紙切れを一枚取り出して、差し出す。
(……あの袖ン中、ホンマ、何が入ってるんやろ?)
 取り出された紙切れを受け取りながら、海来は、心ひそかに“打出の羽織”と名付けたわかばの羽織を、しげしげと見やった。
「何? 何かついてる?」
「あぁ、いやいや。何でもあらへん」
 右手を顔の前でぱたぱたと振り、海来は受け取った紙切れに目を落とす。
 わかばが差し出したのは、借用証書だった。
 借り金は10両で、利息なし、返済期限も特に設けられていない。返済は普通の方法とは別に、さくら屋で働いた分の日当をあてることもできる。
 証書の文面は、海来の記憶ともぴったり一致していた。やっぱり、利息なしの条件になってるやないかと、言いかけたその時、
『なお、さくら屋での日雇いを正当な理由なく、断ったり、途中放棄した場合は、日当分を借金に上乗せするものとする』
 という一文を見つけた。署名欄との配置具合から、後から付け足すという、非道をされたわけでもないようである。
 ……読み落としてたー。
「この間の骨董市。海来君、途中で帰っちゃったわよねえ? あんなに元気だったのに」
 何でもない顔をして麦湯をすすりながら、わかばはさらりと言う。
「──ご不満は?」
「アリマセン」
 がっくりと項垂れ、海来は借用証書をわかばに返した。利息なし、期限なし、という、自分に都合のいいところだけ覚えていたようである。
「分かればよろしい。そういう訳だから、来月はきびきび働いてちょうだいね」
「ガンバリマス」
 よよよ、と項垂れたまま、海来は麦湯に手をのばした。
「わかばちゃん? お話は終わった?」
「あ、お姉ちゃん」
 藍染めののれんをくぐって、ひょっこりと顔を出したのは、さくら屋の女主人、わかなであった。勝ち気な妹と違って、彼女は始終おっとりとしている人である。
「あらあら。わかばちゃん、海来さんをいじめたりしちゃだめじゃない」
「あははは。いじめられてた訳やないんやけど……」
 何となく決まり悪くて、海来は後ろ頭をかいた。
「そうよ。別にいじめたりなんかしてないわよ。それで、何かあったの?」
「そうそう。サガ町の若先生の所へ、お使いをお願いできる?」
 持っている風呂敷包みを軽く持ち上げてみせて、わかなは言った。
「分かったわ。行って来る」
 立ち上がり、姉から風呂敷包みを受け取ったわかばは、後ろを振り返り、
「海来くん。一緒に来たら、増えた分は帳消しにしてあげるけど──」
「お供させてイタダキマス」
 海来の芝居がかった仕草に、わかばは目を丸くしたのち、ふふふっと顔をほころばせる。  わかばが店の表へ出て行こうとした時、部屋の隅がにわかにカタカタと騒がしくなった。
「こがね。おまえはだめよ。お留守番」
 騒がしさの元凶は、わかばが飼っているシロネズミだ。シロネズミは大黒様のお使いだと言われていて、縁起のよい生き物である。
 普段は一緒に連れ歩いていることも多いのだが、これから行く先にネズミは連れて行けなかった。
「お姉ちゃんを頼むわね」
 わかばはネズミに笑いかけると、風呂敷包みを海来に持たせ、さくら屋を出て行く。
 荷物持ちに任ぜられた少年も、どたどたと慌ただしくその後を追いかけて行った。
「気をつけてね〜」
「行ってきま〜す」
 わかなに見送られ、わかばは意気揚々とサガ町へ向かう。サガ町は、さくら屋のあるアイカワ町の隣の町だ。
「わかば、若先生て?」
藪 上総之介(やぶ かずさのすけ)っていうお名前のお医者さまよ。まだお若いのに、腕が良いって評判なの」
「藪先生やのに、腕はええんか」
「そうなのよ」
 答えたわかばは、くすっと小さく笑った。
 左手側に見えて来たエイタイ橋は、いつ見ても人の往来が激しい。その下の大川もたくさんの船が忙しそうに行き交っている。
「そういえば、リョウゴクの川開きが終わったし、夏も盛りになるわね」
「せやなあ。今年の花火もすごかったなあ」
 川開きから8月いっぱいくらいまでは、雨天でもない限り、毎晩夜空に花火が咲いた。
「海来くん、花火見物に行ったの?」
「いやあ、わざわざ見物に行かんでも、長屋の屋根に上ったらよぅ見えるで」
「花火は騒ぎながら見るものよ?」
「いやいや。色男は、そうそう羽目を外すモンやないからやあ」
 海来はにやりと笑ってみせるが──
「あそこが、若先生の診療所よ」
 わかばはきれいにそれを聞き流した。
 彼女が指差したのは、表通りから外れた私道に面している長屋の一角である。壁には『藪診療所』という小さな看板がかかっていた。
「こんにちはぁ! さくら屋のわかばですけど、若先生はご在宅でしょうか?」
 診療所に向かって、わかばは声をかけた。上がり口のところには大きな屏風があって、中の様子が伺えないようになっている。
「藪殿は診療中だ。娘、何の用だ?」
 屏風の陰から姿を見せたのは、わかばと同じくらいの年頃の少年だった。髪を一つにまとめて、頭の高いところで結び、袴を着用している。刀こそないが、一目で侍だと分かる格好であった。歳のわりには、やや神経質そうな雰囲気がある。
「頼まれていた物をお届けにあがりました」
 どうして侍が応対に出て来るんだろうと、首をかしげながらも、わかばは頭を下げた。
「そこで待っていろ」
 少年侍は鷹揚に言い、奥へ引っ込んでいった。
「何や、あの態度」
「侍ってのは、大体あんなものよ」
 目を真ん丸くする海来に、わかばがこっそりと耳打ちする。そこへ、
「よぉ。上総が何を頼んだんだ?」
志輝(しき)さん!?」
「何でおんねん?!」
 診療所の奥から現れたのは、片目の下っ引きであった。家の中にいるからか、袖を通しているのは弁慶格子の着流しだけである。
「何でって、仕事に決まってるだろ。ついでに上総にもこき使われてるけどな」
 まあ、入れよと志輝は、二人を手招きした。
「頼まれ物っていうのは、薬包紙とそれを入れる小袋なんですけど──」
「あぁ、なるほどね」
 玄関を入ると小さな板間があり、その先が診察所だ。診察所と言っても、普通の部屋である。中央を屏風で縦にしきり、薬を調合する場所と二つに分けていた。
 診察所では、20代後半の目の細い青年がおじいちゃんと言葉を交わしている最中である。この青年が、若先生なのだろう。
 診察を待つ人の姿はなく、診療所はいつになくのんびりとしている。室内は漢方薬臭い匂いが漂っていた。小さな引き出しが一杯ついた薬だんすの横の着物掛けには、志輝の物らしき薄緑が交じった灰色の長羽織がかけられている。
 志輝は、薬だんすの前に座り、海来から風呂敷を受け取った。
「上総、紙と袋の発注数は?」
「5と3」
 簡潔な返事であった。志輝は「あ、そ」と短い返事で答え、風呂敷の中身を改める。
「数は合ってるな。──と、悪ぃ。これ、この机の引き出しの中に適当に突っ込んどいてくれ」
 診療所の奥座敷へ顔を向けた志輝は、薬だんすの横の文机を指さして言い、立ち上がる。
「女が目を覚ましましたよ」
「分かってる」
 現れた少年侍に素っ気なく答えた志輝は、そのまま奥座敷へ向かって歩いて行った。
 その背中を何となく見送っていたわかばの視界に、少年侍の姿が入り込む。少年は、どっかと腰を下ろし──
「……君たちは、志輝殿の何なんだ?」
 値踏みするような目で、わかばと海来をじろじろと見つめてきた。
「ふぇ? あ〜……何や言われてもやあ」
 適切な言葉を見つけられずにいると、
「親しいわけではないんだな?」
 そう言い切ってしまえるほど、付き合いがないわけでもない。首をひねっていると、
「では、親しいのか?」
「ん〜まあ、それなりに?」
 海来が答えると、少年は「はっきりしろ」と鼻を鳴らした。ずいぶんな言い草である。
「あのやあ、オレらのことを聞くんもえぇけど、ジブンこそ何やねんな?」
「ボクは、麻生 裕四郎(あそう ゆうしろう)。陰陽師だ」
「お、おんみょーじ?」
 全く予想しない返答に、海来は目をぱちぱちと瞬かせる。わかばも口をぽかんと開けて、「陰陽師って、あの? 安倍晴明とかの──」
「そうだ」
 それ以外に陰陽師があるかと、少年侍は鼻を鳴らした。
「その陰陽師が、志輝に何の用なん?」
「ボクは影同心(かげどうしん)に取り立てられたい。そのためには、彼にボクを認めさせなくちゃならない」
「はあ?」
 海来とわかばの声が見事に重なった。
 まず、影同心というものがどういうものかが分からない。それと志輝のかかわりも分からなければ、認め『させる』という言い方にも引っ掛かった。
「もしかして、君たちは何も知らないのか?」
 裕四郎の眉間に深いしわが刻まれた時、奥座敷から、わかばを呼ぶ志輝の声が飛んで来た。
「はあい」
 自称陰陽師の話も気になるが、志輝の用の方が先である。「失礼します」と一礼をして席を立ったわかばは、奥座敷へ向かった。
「どうしたんですか?」
「すまねぇけど、体を清めてやってくれねぇかな?」
 志輝の視線に導かれ、わかばは開いている障子戸の中へ目を向ける。6畳くらいの部屋の中央に、どこかで見かけた記憶のある三十前の女が寝かされていた。
「男の俺が女の体を拭き清めるのは、ちょっとな。まぁ、清めながら話も聞いてやってもらえると助かる」
「それくらい、おやすい御用です」
 わかばは二つ返事で請け負うと、障子戸を閉め、「大丈夫ですか?」と声をかけながら女に近づいた。
 彼女が横たわる布団の脇には、水と手ぬぐいの入った桶が置かれている。部屋の中には、他に家財道具らしきものはなにもない。
「あぁ、何とかね」
 女の右頬は腫れ、青アザがいくつかできている。唇も切っているようで、口角がぷっくりと膨れていた。
 ゆっくりと身を起こした女は、自分で袖を外し、上半身をあらわにする。
 こちらも、腫れていたり、青アザがあったりとなかなか壮絶であった。
「アンタ、わかなちゃんの妹だろう?」
「お姉ちゃんを知ってるんですか?」
 桶の中に入っている手ぬぐいを手に取り、わかばはそれをぎゅっと絞る。
「知ってるよ。アタシ、エイタイ橋の側のなおえっていう水茶屋で働いてたんだ。わかなちゃんは、時々あすこへ寄ってくれててね」
「あ! もしかして、おとよさん?」
 なおえに寄ったことはないが、その前を通りかかることはしょっちゅうだ。それに、わかなが彼女のことを話してくれることもある。
「そうだよ。うれしいねぇ。アンタがアタシのことを知っててくれてるなんて」
 ふふふと笑いはしたものの、傷に響いたのか、おとよはイタッと、小さな悲鳴をあげた。
「大丈夫ですか?!」
 慌ててわかばは、彼女の顔をのぞきこむ。おとよは少し顔をしかめながらも、「大丈夫だよ」とほほ笑んだ。
「一体、何があったんですか?」
 わかばが聞くと、おとよはしょんぼりと肩を落とした。
「……おとよさん?」
「アタシさ、オトコのせいで、なおえをクビになっちまったんだよね。それで、そいつに別れ話を切り出して……ご覧のザマさ」
 おとよは、痛々しい笑顔をこぼす。
 晋吉しんきちというのが、そのオトコの名前だそうで、左官職をしているのだそうだ。
「茶み女ってのは、愛想が勝負だろ? 特にアタシみたいなトウが立ってきた女はね。なのに、晋吉はそれが気に入らないらしくッてサ……お客相手に一暴れしてね」
 深く重苦しいため息が、おとよの口から漏れた。なるほど、そういうわけだったのか。
 この事が原因で、おとよはなおえをクビになり、彼女は晋吉と別れる決心をした。
「あの人も普段はいい人なんだけどねぇ。悋気りんきが強くッていけないよ」
 別れ話のこじれが、暴力事件にまで発展したので、親分たちが間に入ってくれたのだと、おとよは言い添える。
「まあ、親分さんたちが間に入ってくれたお陰で、何とか事はおさまりそうだよ」
「そう……なんですか」
 何と言って良いやら分からず、わかばは暗い顔で押し黙った。
 かたん、という音が聞こえたような気がしたが、二人ともそれには注意を払わなかった。



「相手を出来なくて、悪かったね」
 患者さんを見送った上総之介は、言いながら海来の側へやってきた。
「あぁ、いや。おかまいなく」
「藪 上総之介と申します」
「は、あ……こら、どうも。オレは、海来言います」
 海来の正面に腰を下ろした上総之介は、ていねいに頭を下げる。海来は薬袋をしまっていた手を休め、へこへこと頭を下げ返した。
「志輝とは飲み友達でね。海来君の話もいろいろと伺っていますよ」
「はあ……」
 メガネをかけて穏やかに笑っている上総之介が、志輝と飲み友達だというのは意外だ。
「藪殿。志輝殿から仕事の話を聞かれたことはありませんか? ぜひ、お話を聞かせていただきたいのですが──」
 裕四郎はずずぃと上総之介に詰め寄ったが、彼は、のほほ〜んとした様子で「志輝、お茶」と後ろに向かって声をかける。
「お前な……」
 ちょうど奥座敷から戻って来たところだったのだろう。志輝は、何で俺がと文句を言いながら、台所の方へ歩いて行った。
「仕事の話は、ほとんどしないのですよ。私も、志輝もね」
 右の首の付け根あたりを左手で押しながら、上総之介は言う。
「私も志輝も、秘密の多い仕事なのでね」
「ですが──!」
「彼は、下っ引きです」
 裕四郎が詰め寄って来るのを、上総之介は制した。
「ただの下っ引きに、華々しい活躍など、そうある訳がないでしょう」
 表情こそ穏やかながら、瞳の奥にはこれ以上の追及を許さない強い意志が光っている。
 くっと小さく唸った裕四郎は、キミも何も聞いていないのかと、海来に目で訴えてきた。
 海来はこの視線をへらりと笑って、やり過ごす。海来も志輝の仕事の話は、全くと言っていいほど聞いていないからだ。
 何とも言えない気まずい雰囲気が、場を支配する。早く志輝が戻って来るように、海来が心中で祈っていると、
「馬鹿野郎ッ! 逃がすやつがあるか!!」
 志輝の怒鳴り声が、台所から聞こえてきた。珍しいこともあるものだと、海来は台所の方へ首を伸ばす。ふと横をみると、上総之介も同じように首を伸ばしていた。
「見に行ってみますか」
「……行ってみまひょか」
 不思議そうに目を丸くする上総之介に誘われ、海来は台所へ向かった。



「──良かったら、私の方でも奉公先をあたってみましょうか?」
「本当かい?」
 おとよの話を一通り聞き終わったところで、わかばは、遠慮しがちに口を開く。萬屋さくらは、広く浅くを信条に商売をしているから、これでも顔は広いのだ。
「だったら、お願いしようかね」
「任せてください」
 わかばが、どんと胸を叩いたその時、何の前触れもなく障子戸が開いた。上総之介か志輝でも来たのかと思えば、
「アンタっ!」
 おとよが目を見開く。さっと顔から血の気が引き、口から小さな悲鳴も漏れた。
 障子戸を開けて中に入って来たのは、二十半ばくらいの職人だった。首からお守りをぶら下げ、腹掛けに股引という格好の男は、髷はばさばさで、体中傷だらけである。
「おとよ……すまねぇ! おれが悪かった! このとおり謝るから、別れるだなんていわねぇでくれ!!」
 男は、がばっとその場に膝を折ると、ぺったんこになっておとよを拝んだ。  どうやら、この若者が晋吉らしい。
 おとよはフンと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。許すつもりはないというのである。
「おとよ! おめぇの口はおれが養ってやる。もういっぺん、やりなおそう」
「何ばかなこと言ってるんだい。半人前のアンタの稼ぎじゃ、アタシを食わせていくなんてできっこないじゃないか」
 そっぽを向いたまま、おとよは言った。
 二人の会話を、わかばは、はらはらしながら見ていた。誰か呼んで来た方がいいのか、このまま二人で話をさせた方がいいのか。判断に迷う。
「おれがこんなに謝ってるッてのに、おめぇは考え直してくれねぇのか?」
「ふん。アンタがこさえてくれたこの傷が、それで治るわけじゃなし、クビになったことだって消えてくれやしないんだよ」
「おとよ──」
 マズイ。わかばは、そう直感した。
 今にもどかんと爆発しそうな晋吉の雰囲気に、わかばは生唾を飲み込み、おとよを背にかばった。
「おとよさん、立って。あの人、様子がおかしいわ」
 どうしたのさと、小声で問いかけてくるおとよに、わかばは口速にささやきかける。
 不審げにしていたおとよも、晋吉の様子をみて気づいたようだ。こくこくと首を縦に振り、ゆっくりと布団から立ち上がる。
 この座敷と襖一枚隔てた向こうには、海来たちがいるはずだ。
 わかばは、おとよを背にかばったまま、じりじりと襖の方へ移動する。
「おとよぉ……おれがこんなに言ッてるてぇのによォ……」
 がばっと顔を上げた晋吉の顔は、泣き般若のようであった。泣いているのに怒っている、怒っているのに、泣いている、そんな顔だ。
「来ないで……」
 わかばが絞り出した声は変にしわがれている。
「許さねぇぞ、おとよぉッッ!」
 晋吉は叫ぶと同時に立ち上がり、突っ込んで来た。
「おとよさん、逃げて!」
 どんと、おとよを後ろに突き飛ばしたわかばは、羽織の袖の中の物を、片っ端から晋吉に向かって投げ付けた。筆箱に大福帳、地図の束、箱そろばん、などなど。
 般若は、うっと小さく声をあげて怯んだものの、投げる物がなくなったとみるや、ニヤリと牙のような歯を覗かせた。
「まだまだっ!」
 次にわかばが投げたのは、小さな短冊の束である。花名刺といって、フカガワの芸者たちが密かにお客へ配っている物だ。可愛らしいので、わかばも気に入り、作ってみたのである。得意先の評判も上々だった。
 ただ、彼女たちの名刺と違って、わかばの花名刺には、護身用として一部カミソリを仕込んでいるものがある。
 花名刺を投げ付けると同時に、わかばは晋吉に背を向け、隣の部屋に逃げ込んだ。
「あ、麻生様だけ?! 海来くんは!?」
 部屋にいたのは、何かの様子を伺うように立っていた自称陰陽師の少年侍だけである。上総之介はおろか、海来や志輝の姿もない。
「鬼、か。案ずるな。ボクが始末してやる」
 裕四郎は、下がっているようにと、わかばとおとよに命じた。自信満々の侍を頼り、わかばは、おとよと一緒に後ろへ下がった。
 肩越しに二人が下がるのを確認した裕四郎は、晋吉に向き直り、袖口からしゅるりと大きなお札を出した。それを人差し指と中指で挟み、何やらごにょごにょと唱え始める。
「おとよぉぉぉぉ……」
 その一方で、泣き般若と化した晋吉の上半身が、ぼこぼこと不格好に膨らんでゆく。
「じゃまするなあぁぁっ!!」
 般若が叫ぶ。裕四郎は、「えいっ!」と気合の一声。札を投げ付けた。
「ひぐぅあぁぁぁぁっ?!」
 札がびたりと額に張り付き、泣き般若が大きな悲鳴を上げる。その声の大きさにびっくりして、おとよとわかばは、ぺたんとその場に崩れ落ちた。
「何の騒ぎです?!」
 遅れてどたどたとやって来た男たちに、わかばは「アレ、アレ」と般若を指さした。
「ひぃ?!」
 海来が情けない悲鳴を上げる。
「手だし無用!」
 裕四郎は断じると、またもやごにょごにょと呪文らしきものを唱え出した。
 般若は、苦しげに身をよじる。
「待て、やめろ!」
 志輝の声も聞かず、裕四郎は「えい、えい、えぇいっ!!」と指を上下に振った。
「ぎぎゃああああッッ!!」
 断末魔かと思われた般若の悲鳴だったが、それは違っていた。首からぶら下げたお守りが、ふわりと宙に浮き上がり、黒い勾玉がそこに張り付いていたのである。
「あれは?!」
 海来が目を見張った。
 ちぃっと志輝が舌を鳴らす。
 勾玉は、どす黒い風を捲いて竜巻を作り、般若の額に張り付けられた札をずたずたに切り裂いてしまった。
「何だと?!」
 信じられないという驚きたっぷりに、裕四郎が声を荒立てる。
 わかばも「ウソでしょ?!」と金切り声を上げた。
 してやったりと、泣き般若は涙を流す目を細めて嘲笑する。
「かっ、海来くんっ!」
「あんなんとケンカでけるかぁっ……!」
 少年は、非常に情けない反論でもって答えた。根性を見せろ、気合でいけ! わかばは怒鳴ったが、海来は「無茶言うなや!」と逃げ腰である。
「しっかりしなさいよ、男でしょうっ?!」
 診療所の床をばんばん叩いて訴えたが、海来は「関係あらへんわッッ」と大騒ぎ。
 全く、情けない限りである。
 しかし、救いの神は別にいたのだ。
「とうか!」
 それは、志輝である。彼の清廉な声に応えるように、着物掛けにかかっていた羽織の袖から緑の綱が飛び出した。
「うぐるるるぅぅぅぅぅ!?」
 綱は、泣き般若を瞬く間に拘束。それを助けるように、志輝が呪文と唱えている。
「海来くんっ!」
 かたかたと震えるおとよを抱き締めながら、わかばは、ばしんっと床を叩く。
「わっ、分かっとるがな」
 相手が動けなくなったので、海来も不承不承ながら腹を括ったようだ。もっとしゃっきりしなさい、と怒鳴りたくなるようなへっぴり腰で、少年は般若に近づいて行く。
 その後、海来が般若に何をしたのかは、わかばの位置からは見えなくて分からなかった。分かったのは、
「今、助けたるさかいな」
 という海来の優しい声の後に、彼がいつも持ち歩いている目釘抜きが、振り下ろされたことだけである。

 ぱきィィ……ん。

 やけに澄んだ音が聞こえると、鬼が晋吉の姿に戻りながら、その場に崩れ落ちた。
 緑の綱はしゅるしゅると、生き物のように長羽織の袖の中へ戻って行く。
 診療所を満たしていた、殺伐とした緊迫に満ちた空気は、一気に解放へ向かった。
「はあ……何が何やらさっぱりだ」
 大きなため息と共に、上総之介がつぶやく。
「……ったく、こいつを逃がしやがるからこんなことになったんじゃねぇのか?」
 苦り切った声は、志輝のものだ。
「海来君、すまないが、隣の座敷に布団を敷いてもらえないかな?」
「あぁ、はい。ほな、スグに」
 若先生に言われ、海来は隣の座敷へ向かう。
「おとよさん、もう大丈夫だから」
 わかばはまだ震えているおとよの肩を、ぽんぽんと叩いてあげた。本当に? と震える声でたずね、顔を上げた彼女に、
「本当です」
 わかばは、にっこりと笑い掛けた。
「……わかば、と言ったな? あの男は何者だ?」
 上から振って来たのは、苦渋に満ちた裕四郎の声である。見下ろされる格好のわかばは、少しばかり表情を歪めながら、
「刀の鑑定をしてるらしいですけど、詳しくは知りません」
「──恋人のことなのにか?」
「はぁ?! ばかなことを言わないでください。そんなんじゃありません」
 わかばは憤然と言い返した。
「そうか……なら、いい。どうやら志輝殿にボクを認めさせるには、彼に勝ってみせないと駄目なようだしな」
「はあ?」
 言葉の意味が分からなくて、わかばが目を丸くしていると、裕四郎はいつの間に拾ったのか、花名刺をわかばに見せる。
「この変わった短冊はもらっていくよ。君のことも含めて、あの海来とか言う男に負けるつもりはないから、そのつもりで」
「はあ?」
 わかばは、ますます目を丸くする。
「宣戦布告ってやつだよ。ボクは、影同心の役目も君も、あの男には渡さない」
 そう言った裕四郎は、片目をつむってみせ、じゃあ、とわかばに背を向けた。
「はあ?」
 訳が分からず、きょとんとしているわかばの側に、志輝が近づいてきて、
「さっすが山の手。気障りだ」
 ほら見ろ、寒イボができてらと、右の袖をまくってみせる。
 わかばは、まだ思考がつながっていない。
「もう、鈍いねぇ。アンタは、あの坊やに惚れられたんだよッ。あの口ぶりじゃ、目元にホクロのある坊やを恋敵だと思ってるね」
「はあ?!」
 おとよの一言に、わかばは目を白黒させた。
 一件落着、とは言いがたいようである。




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